「パブロフ」
Written by.綾瀬 2004年07月16日 (金)00:11
「ジープいる?」 ジャケットを軽く肩に担いだ姿で、部屋のドアを開けたばかりの悟浄がたずねた。 「っといたいた。しばらくジープ貸してね」 誰が答える間もなく白い竜を見つけ出すとおいでおいでと手招きし、応えるようにぴぃと擦り寄る長い首を撫ぜながら悟浄は再びドアの向こうへ消えた。 「……なあに、いまの?」 嵐のように閉じられたドアに向かい目を丸くして悟空は聞くが、三蔵は「知るか」と一言放って新聞を読み続ける。悟空は続いて八戒の方を向いたが、なんでしょうねとにっこり笑ってこちらも何も答えない。 しかし八戒は知っている。 こんな時の悟浄は決まって、一人泣いているのだ。 +++ 宿の駐車場には姿が見当たらなかったので、八戒は近所を少しばかり探し回る羽目になった。それでも、悟浄がジープを運転することはないので徒歩で動ける圏内にはいるだろう、そう当たりをつけて車の止められそうな空き地をいくつかめぐると、案の定そのうちの一つに悟浄を発見した。 ほの暗い空き地に薄くカーステレオの音が響く中、悟浄はいつものようにジープの後部座席にすわり、シートにもたれかかって大きく空を仰いでいた。八戒は、悟浄の右手の吸いかけの煙草がじりじりと煙を吐くのを少しの間見守った後、思い切って声をかけた。 「…シート、焦がさないでくださいね」 それに対して驚く様子も見せずに悟浄は答える。 「耳タコ」 気を付けてます、と、口調は軽いが姿勢はぴくりとも動かず天を仰いだままで、またしばらく時が流れた。気をつけているというそのタバコすら口に付ける様子もない。 そのまま一つの空気も動かず、しばらく辺りはカーステレオの音だけに包まれる。その姿を見続けるのにも飽きて、八戒はやがて、いつもの運転席に腰を下ろした。それを受けて悟浄が久々に言葉を発する。 「なあによ。何か用事?」 体は相変わらず天を仰ぐ姿勢のまま。 「別に用事はないすけど」 八戒も、振り返らずに言葉だけかえす。 「ならこんな寒いとこいないでお帰りあそばせ」 「悟浄が」 「ん?」 「泣いてる気がしたんで」 背中越しでもわかるくらいの、極上に穏やかな笑顔を作って八戒がそう言うとまた、しばらく空き地に音だけが残る。 何と言う曲なのだろう。先ほどから繰り返し繰り返しただ一曲だけが流れているから、八戒はもうすっかりメロディーを覚えてしまった。ゆったりとした音の並びに聞いたことのない言語の歌詞が乗っている。何を歌っているかは分からないが、聞いているとほんのりと心が温かくなるような、そんなメロディー。いい曲だな、と八戒は思った。これが、悟浄のとっておきの一曲、なんだろうか。こんな夜に決まってジープを連れ出す理由はカーステレオにあることに気づいて以来、八戒はいつかその曲を聞いてみたいと思っていた。悟浄の泣きたい夜にはきっと、ずっとこの曲だけが流れ続けているのだ。 「何て歌ってるんですか、これ」 「んー」 片手のタバコは既に地に落ちすることもないはずの悟浄だが、相変わらず反応は鈍い。 「知んねー。貰いモンだし」 「貰い物?誰から? このテープ、編集してありますよね?」 「みたいね」 ヒマ人だったんだろーねー、などと覇気のない声で悟浄は続ける。 「いい曲ですね」 「そお?」 「…普通いい曲だから聞くものじゃないですか?」 「んー?そうかな…いい曲かも」 「…悟浄らしい」 「でしょ」 「何があったんですか」 そこで丁度、曲が途切れた。 数秒の間無音のままテープは走り、がしゃりと裏がえる音がしてやがて、再び曲が流れはじめる。 「…さっきさ」 「はい」 「泣きながらケンカしてるチビの兄弟がいたのよ」 「はい」 「まあまあっつって仲裁に入ってあげたワケよ、優しいオレ様が」 「はい」 「そしたらすぐ二人とも泣きやんでさ」 「はい」 「よかったねー、って話」 「はい」 「……以上、おわり」 「はい」 「…俺さ、前から言おうと思ってたんだけど」 「はい?」 「お前ってちょっとデリカシーに欠けるよね」 「…そうですか?」 「そうですよ。こういう空気の時は、男は黙って見ないふり、でしょ?」 「そうでしょうか」 そうかもしれませんね。 その後に続きそうだった言葉を、口に出すか否か八戒は一瞬躊躇して、思い返して、決意をして、続きを口に載せた。 「そうかもしれません。けど。僕、想像以上にあなたのことが好きみたいなんです」 それで会話は終わり。 結局その夜、八戒は後ろを振り向かぬまま悟浄は天を仰いだまま、二人は顔をあわせることすらなく、ただただ同じメロディーを聴き続けた。 何がきっかけになるとか。そんなことは自分にだって分からない。花が綺麗に咲いていたとか、知らない人に親切にされたとか、子供がケンカをしていたとか。気持ちが落ちる原因はどこにだって転がっていて、そして原因なんてなくっても、無性に泣きたくなる夜が大人にはある。泣きたい時に聞く曲がある。 どうしてもその曲を聴いてみたかった。 だから二人は、夜通したった一つのメロディーを聴き続けた。 +++ 次の日からしばらく、ジープのカーステレオが使用禁止となった。音のない旅は間が持たなくていかんと静かに反対する三蔵を、確かに音楽ぐらいしか聴いて楽しい声もここにはいないしな、と悟浄も地味に援護したが、結局のところ一番の権力者は八戒だ。しかも、ことジープに関しては、飼い主である八戒が絶対的な決定権を持っている。 それに、いいんですか?悟浄? ハンドルを握りながら心の中で八戒は問いかけた。 あの日あきれるほど聞いたメロディーは、その後もふとした瞬間には頭に甦って、それを追い払うだけでも僕はこんなに苦労しているというのに。もしもステレオから耳に馴染んだ曲が流れてきたら、ぜったい自分を抑えることができなくなります。いいんですか、それでも? あの曲が流れてきたら、条件反射で笑ってしまう。 あの楽しかった夜を思い出して、自分は絶対笑ってしまう。 ・ 書きビトコメント ・ 気持ちが落ちている時に考えるネタ第二段悟浄バージョン。ほんと、何がきっかけになるかなんて、分かったもんじゃありません。 これも微妙に拾いネタ。とある曲が、流れ初めて頭のほんの少しが聞こえただけで「泣く!」と言う部長がいます。条件反射だそうです。でもそういう曲ってあるよなーと。「くっそー今日は泣くぞ!」と自分で自分を盛り上げるというかー。ありますよね?そういう曲って。 というわけで、イメージ曲はWA「常夜灯」です(笑) ちなみに個人的裏設定。わざわざ一曲を繰り返しに編集したカセットテープを渡したのはバンリということで(=微妙にいやがらせ) |