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眼底 [2004/03/20/15:40]
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  あの人は苦手だ。
 「あなた、飛連通と言いましたね」そう通りすがりに肩を捕まれて言われた。「先日はありがとうございました」
 先日、という言葉に思い当たる事象がなかったので一瞬身を固くしてしまったが、記憶をたぐってみた所つい数日前に、何てことのない伝言を殿に頼まれ布留部殿の部屋に赴いた事に思い至った。
 しかしあんな何でもない仕事で、呼び止めるくらいはまだしも、わざわざ肩を捕まれる必要などないはずだ。私は殿の命を仕事として遂行しただけだし、伝言の内容だって他愛のないものだったはずだ。そもそも確かもうたっぷり五日は前の事だったはずで、それを今更持ち出されるのもひっかかる。
 いやしかし、右大臣殿のすることが一々心にひっかかりを残すのは、実は今に始まった事ではないのだ。何が理由かは自分でもよく分からない、けれど、あの美しい容姿にも、滑らかな話し方にも、常にどこかにほんの小さな違和感を感じる。どうしても自分は、あの方の存在に慣れることができない。
 こう思っているのは私だけなのだろうか。今や右大臣の活躍ぶりは巷でも知らぬ人はおらず、あの田村麻呂様すら賞賛の声を漏らすその有能さには反論の余地がない。それは、分かっている、あの方の判断はいつも的確だ、それは分かっている、しかし…
 いつの間にか、捕まれた肩から自然避けるように目線を反らしてしまう。が瞬間、右大臣の体がくるりと前へ回り込み、更に首を少しばかりかしげて、自分の瞳を下からまっすぐに覗き込んだ。
 目が合う。目が合った途端、にっこりと笑った。この目が、苦手だ。
「ありがとう、ございました。飛連通」
 何かの念を押すかのように、一言ひとことを区切って右大臣は言った。相手の目を常に正面に捕らえて布留部殿は話す。その話し方が、苦手だ。その瞳が、恐ろしい。

 この瞳には、何もかも見透かされてしまいそうで。
 決して知られてはならない、胸の底の想いまで。